『弟子規』通釈



弟子規通釈


総叙(総括)


(1) 「弟子規」は、古の聖賢孔子が教導したものを基に編纂された道徳教範である。その中で最も重要なものは、父母に孝順し、兄弟には友愛をもって接し、その次に人に接し、事をなす際には、慎ましさと誠をもって、信を重んじることである。天下の衆人は、これを愛護し、かつ近隣の仁徳ある人には、多く親しく接してこれに学ぶ。それでもまだ、時間と体力に余裕のある時には、六芸※など有益な学問を学ぶものである。

※六芸(りくげい)…中国古代の儒教で用いられた専門用語。礼―礼楽、楽―音楽、射―弓術、御―馬車の運転操縦、書―文学、数―数学、以上の六科目。


入則孝

第一章 家の中での父母への孝順


 (2)父母がわれわれを呼んだ際には、すぐにこれに応え引き延ばしてはならない。父母がわれわれに用事を言いつけた際には、即刻行動に移し、これを揺るがせにしてはならない。父母が、われわれに人に接し事に対処する道理を説明して導いている際には、これを恭しく聴き、心に留めるべきである。父母がわれわれの過ちを譴責している際には、これを受け入れ、過ちを認め、口答えをせず、隠し事をしてはならない。


(3) 父母の健康を鑑みて、冬は両親の席が温まるようにし、夏はその席で涼しく過ごせるよう工夫する。朝起床したら、まず父母に挨拶をして、両親を思っていることを示し、晩には布団の上げ下げなど安眠を図ってやる。外出する際には、その旨を両親に報告するが、これは父母が常にその子女を心配しているゆえんである。夕方に外から帰宅した際には、今日一日あったことを報告して安心させる。日常生活においては、住所と住居を定め、必ず一定の習慣と健康を保持して、これを妄りに変えてはならない。


(4) 小さな事であろうと、情理に合わないことを任意にやってはならない。もしやってしまうと、それは不孝にあたる。なぜなら父母はその子女が情理に合わないことをやるのを見るに忍びないからである。小さなものでも、これを妄りに着服してはならない。もし着服してしまうと、父母が知るときっと恥ずかしく感じるからである。


(5) 父母の喜ぶものが、情、理、法に適っていれば、それらを極力準備してやる。もし、人、事、物が両親を嫌がらせているとき、それが合理的な範囲内であれば、それらを極力排除してやる。

 もしわれわれの身体が傷つけば、両親はきっと心配する。もしわれわれの行いに品徳に欠けるところがあれば、両親はこのために恥ずかしく感じ入る。

 もし父母がわたしを愛してくれていれば、両親にしたがいこれに孝行を尽くすことは難しいことではない。しかし両親が私を憎悪していても、なおかつこのように同様に孝行を尽くしてこそ、賢人の孝行と基準が一致する。


(6) 父母が過ちを犯しているときは、これを改めるよう勧めなければならない。勧める際には、表情は和やかに言葉も優しいものでなくてはならない。父母がもしこれを受け入れないときには、父母の機嫌のよいときに再度勧めてみる。それでももし父母が受け入れないときには、泣いて父母に訴えてその思いを伝えるようにする。これによって父母に鞭うたれるようなことがあっても、心の中で決して恨みをもってはならない。


(7)父母が病気になったら、飲ませる薬を準備し,まず自分が先に嘗めて見て、苦すぎないか、熱すぎないか確かめ、朝晩にはその病床に付き添って看病する。

 父母が亡くなってから三年間は喪に服し、父母に養育された恩に報いきれなかった部分について惜しみ嘆き、悲しみをかみしめる。家の中は簡素にし、酒肉を絶ち、遊興所に行くことは避け、慶典行事には参加しない。

 父母の葬儀は礼式に則って執り行い、父母の霊位を祀るには誠を尽くす。亡くなった父母の霊位を弔って勤めることは、父母が在世のときとまったく同じである。


第二章 出則弟

兄弟姉妹と長者への対応の原則


(8)長兄は、弟妹を可愛がり、弟妹は長兄を尊敬する。このようにすると、兄弟姉妹は相睦まじく、これが父母への孝行につながる。

 兄弟姉妹は、同砲への情義を重視して、これを財物の上に置く。そうすれば、財物を兄弟で取り合って争い、恨みを生じることもなくなる。話しをする際に、その言葉使いに慎みと忍耐をもてば、自然と恨みつらみも消滅する。


(9)飲食をする時、座る時、歩く時、いずれの場合も年長者が先にし、年少者はその後に随う。

 年長者が人を呼んでいるときには、年長者の代わりに人を呼びに行く。その人がいない場合、さっそくその旨を年長者に報告し、かつそのいない人にかわって年長者のために働く。


(10)中国の古の礼儀に從い、尊長を呼ぶ際にはその名で呼ばない。尊長の前では、自己の才能をいたずらにひけらかさない。

 路上で長者に遇った際には、すぐさまその面前に向かって行って、身を屈めて一礼する。もし彼がすぐに開口しないときには、恭しくその場を退く。

 馬に騎乗していて、路上で長者にあったときには、すぐに馬から降りて長者に挨拶する。もし馬車に乗っていて、路上で長者に遇ったら、すぐに馬車を停めて車から降りて挨拶し、同乗しないかどうかを伺う。もし路上で長者が通り過ぎるのを目撃したら、しばしその場に立ちつくして敬意を表し、尊長が遠くに見えなくなってから、その場を離れる。


(11)長者が立っている間、それより年少者は座ってはならない。ようやく長者が座って後、長者がすわってよいと言ったら、年少者は座る。

 尊長の前では、声は低調に抑えて話す。しかし、声が小さすぎて、聞こえずらいのは宜しくない。

 尊長に会見するときは、その面前に速やかに向かう。その場を離れる際には、そそくさとせわしくしない。長者の問いに答えるときには、視線をキョロキョロとしないで、長者を真っ直ぐに正視する。


(12)叔父叔母にも自分の父母と同様に接する。従兄弟、従姉妹にも自分の弟妹のように接する。


第三章 謹

毎日の生活に関する注意


(13)毎朝父母より早く起き、夜は父母より遅く就寝する。一度経過した時間は二度と返らず、自らも一年一年老いてゆくが故である。朝起きたら顔を洗って歯を磨き、トイレの後はすぐに手を洗うこと。


(14)帽子は端正に被り、衣服の紐はきちんと締める。靴下と靴は踵を踏んだりせず、整斉と履く。帽子と衣服は一定の場所に保管し、乱雑に散らかしたり、汚したりしない。


(15)身に付ける衣服は小奇麗に清潔にし、華美であるかどうかを問わない。身に付けるものは、自分の身分や地位に相応しいものとする。家で身に付けるものも、伝統と習慣に則ったものにする。

 飲み物と食べ物については、好き嫌いや偏食をしない。食べる量は、腹八分目の適量とし、食べ過ぎない。年少者は、飲食をしない。成年も飲みすぎて醜態をさらさない。


(16)路を歩く時は、足取りは軽く、早すぎたり遅すぎたりせず、地に足を着けて歩く。立つときは、身体をまっすぐに保持して立つ。礼をするときは、身体を深く屈めて、両肘は円を描くようにして恭しさを示す。

 門から入る時は、その敷居を踏まない。立つときは、片足に体重を乗せて立たない。座る時は、両脚を開いたり、伸ばして座ったりせず、貧乏ゆすりをしない。


(17)部屋に入る時は、簾をゆっくりと開け、声を発しない。角を曲がるときは、内側の空間を保持し、角にぶつかって受傷しないようにする。

 空の容器をもつときは、中がいっぱいであるかのように慎重に取り扱い、ひっくりかえしたり損ったりしない。誰もいない部屋にはいるときは、あたかも誰かがいるかのように勝手に入らない。

 事をなすときは忙しくしない。忙しいと往々にして間違いを犯すからである。難しすぎる仕事は引き受けてはならない。簡単すぎる仕事も引き受けてはならない。みくびって軽視するとミスしがちだからだ。

 賭博場と盛り場は避ける。邪悪なものや不正なものに興味を示さない。


(18)部屋にはいるときは、あらかじめ中に人がいるかどうか確かめてから入る。入る前に、必ず入る旨を告げてから入る。

 もし、中の人から誰か尋ねられたら、自分の姓名を告げるようにする。「私だ」とだけ単に告げると、中の人ははっきりと分からない。

 人から物を借りるときは、予めその人の許諾を受けてから、その物をもってゆくことにする。あらかじめことわっておかなかったら、それは窃盗にあたる。

 人から物を借りた時は、必ず期日まで返すようにする。そうしないと、急用のとき、また借りることが困難になる。


第四章 信

 信用を得るに値する人となるには



(19)話をする上で最も重要なことは、まず信用を得るように話すことである。嘘を言ったり、出鱈目を言ったりしてはならない。多弁を弄することは、肝心なことを簡潔に話すことにはかなわず、間違いなく話し、くれぐれも巧言令色を弄してはならない。


(20)未だ事情がはっきりせず、自分の目で確かめていないことを妄りに口にしてはならない。いまだ確定していない事実も軽易に散布してはならない。妥当でないことも軽易に引き受けてはならない。軽易に引き受けてしまうと、進退に窮まり、やってもやらなくても間違いになるからである。

 話す上では、肝心なことに重点を置き、饒舌になったり、早口になったりせず、はっきりしないことを話すことはない。

 井戸端会議で、あっちの家の事情がどうであるとか、こっちの家の事情がどうであるとか、自分に関係ない事であれば、裏事情などの噂話に関わらない。


(21)他人の善行を見たら、それに見倣い、彼との差が大きければ、努力して少しづつ近づくようにする。他人の悪事を見たら、自分を振り返って考えてみる。もし自分にも同様なところがあれば、すぐさま改正し、よしんばなくても自ら戒める。


(22)品徳、学問、才能、技芸が他人に及ばないところがあれば、自ら刻苦精励し、上を目指して努力する。もし自分の着用する衣服が他人ほど立派ではなく、自分の口にする飲食が他人ほど豪勢ではなくても、悲しみ恥じ入る必要は全くない。


(23)もし自分の欠点や過ちを指摘する人に怒り、自分を褒めてくれる人を喜んだら、悪友が次々とやってきて、本当に有益な良い友は去ってゆく。もし人から称賛されたら、得意になったり羽目を外したりせず、自らを振り返って足りないところを恐れ、努力を継続する。人が過ちや欠点を指摘したら、怒ったりせず、謙虚に受け容れる。そうすれば、自然と正直で誠実な人たちが接近してくる。


(24)知らないうちに犯す過ちを間違いというが、これを意識的に故意に犯すと罪悪となる。過ちを自覚して改めることができるのは、勇者の行為であり、それは自然とすこしづつ消失してゆく。面子のために死んでも過ちを認めなかったり、隠したり粉飾したりするのは、過ちの上にさらに過ちを重ねることである。


第五章

一切衆生を平等に愛する


(25)人と人とは、相睦まじあい、お互いに関心をもって、自分を愛するように他人を愛さなくてはならない。それは天地が万物を平等に育んでいるのと同じである。


(26)品行が高尚な人は、自然と名声も高くなる。人々が尊敬するのは、その徳行と修養なのであって、その外貌が他人よりも優れているからではないからである。

 才能があって学識も豊かな人は、事物を処理する能力に長けているので、自然と名声も上がってくる。人々が敬服するのは、彼が耳触りのよい話をするからではなく、真に実学のある人材であるからだ。


(27)自ら才能と本領のある人が人を助けるときは、個人的な利益を打算せず、人を助けることを楽しみとする。他人の才能が自分より秀でていたら、その悪口を言わず、彼らを見倣って学ぶ。

 お金のある人の面前では、媚び諂うことがないようにし、貧窮な人の前では傲慢にならないようにする。一般庶民である古い朋友との付き合いを厭い、身分のある人との新しい付き合いを結ぼうとしてはならない。人が忙しくしているときには、これを邪魔してはならない。人の心理が不安定のなときも、これに際限なく話しかけてはならない。


(28)人の短所をみつけたら、これを軽々に故意にあげつらってはならない。人の秘密を知ったら、絶対に口外してはならない。他人の善行を宣揚することは、自ら善行を行うことと同じである。なぜなら聞いた相手が、善行を奨励されるからである。

 他人の過ちを大衆の前であげつらうのは、一種の悪行であるばかりか、人の憎悪を買い、自らに禍を招来するものである。朋友間で互いに努め励み、善行の方面で互いによく努めることができれば、品徳は自然に上がってくる。過ちを犯しても、互いによく規制することができなければ、双方とも品徳は退歩し、変差を生じてゆく。


(29)朋友間の財物の往来は、これをはっきりと明確なものとしなければならない。貪る心は捨て、与える時は大目に、取る時は少な目にする。

 人に用事を頼むときは、まず自分が喜んでそれをやるかどうかを自問してみることである。もし自分が喜んでできなければ、人にやってもらおうとする考えを念頭から外さなければならない。受けた恩は、機会をみつけて報いるようにする。人からよくないことをされた恨みは、いつまでも心の中に置いておかず、忘れるように努める。

 怨恨はいつまでも心に留め置かず、受けた恩はいつまでも記憶しておく。


(30)自分の代わりに用事を済ませくれる下僕の人たちには、これらを軽視する態度を見せてはならない。下の人たちに厳しくしすぎて怖がらせてはならず、慈しみと度量をもって接しなくてはならない。

 自らの権力と勢いとをもって人を圧して無理強いをすると、その人は心の中に屈辱感を覚え服しない。もし情理を通して誠意をもって要求すると、相手は心服する。


第六章

仁慈と有徳の人と親しく付き合い、これに見倣う


(31)同じ人であっても、一人一人個性があって、考え方も違うものである。世間に染まった俗な人はやたらに多いが、品徳のある愛心の人は非常に少ない。

 品徳のある愛心の人は、皆から畏怖される。なぜなら彼は正直に敢えて言い、嘘を言って人を奉ったりしないからである。

 有徳の人に親しく接すると、多くの良いところがある。われわれの品徳が日々に上昇し、犯す過ちが日々に減少するからでる。品徳のある人に接することができないと、われわれにとって良くない処がたくさんでてくる。小人がその機に乗じて接近してきて、われわれがその影響を被り、品徳が次第に損なわれてゆくのである。


第七章 学芸を高めることによって自らの精神生活を向上させる



(32)読書の知識の上だけで、実際どのように応用したらいいのかが分からなければ、その学問はうわべだけの飾りものにしかすぎず、最後にはどのような人に成るのか分からない。しかし盲目的に事を行って、本の上から知識を学習したり吸収したりしなければ、自己の狭い了見に固執して、事情の真相と道理を看ることができないものとなる。


(33)読書には重要な法則が三つある。心で憶え、目で見て、口で読むのである。これら全てが確実に具備されなければならない。

 学問には専心が必要である。こちらの本を読んでいるときに、あちらの別の本を想ってはいけないし、この一書が読み終わらないうちに、別の一書に行って読み始めてはならない。

 自分に時間があって読書をする際には、緊張感をもって集中すべきである。自分の学力が成熟してくれば、自然と一切が明らかになってくるものである。心中に疑問が生じたら、随時手元に書き留めておき、学問のある人に教えを請い、正確な回答が得られるようにする。


(34)読書をする環境は、清潔で乾燥した状態を保持しなければならない。机と椅子も乾燥した状態を保ち、法筆と硯台もきちんと整頓しておいておく。字を書く前に、まず墨を摺るが、墨が偏って減るのは、専心になっていない顕われである。書いた字が端正でないのは、精神が集中していないか、もしくは心が急いているからである。

 本を保管するさいには、必ず分類別にして分け、一定の場所である定位に安置する。読み終わった本は、必ず元あった定位に戻すようにし、次の所要時に探さなくもよいようにする。

 急な用事ができた際、開いていた巻物は必ず元に巻き戻して、また元の場所に整頓して置いておくこと。本が破れていたり、落丁していたときには、すぐさま補修して本自体が駄目にならないようにする。


 聖賢の書いた本でなければ、一律にこれらを避けて見てはならない。それらは、われわれの智慧をくらまし、資質を塞ぎ、その考えと思いと志しとを変化させ壊してしまうからでる。自暴自棄となって、自ら堕落に甘んじてはならず、目標に向かって漸次順序立てて努力すれば、必ずやいつか聖賢の域に達することができる。


(完)

☆ご愛読ありがとうございました。


参考参照文献:

正見網「弟子規」中文版

大紀元初級文化教材「弟子規」中文版

明慧学校「弟子規」中文版

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