三字経本文注解


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人目の来訪者です。

☆「弟子規通釈」は、上の「弟子規とは何か」→「弟子規全文」→「弟子規通釈」と順番にクリックしていただければ、そこに到達してご一読頂けます。



















































































1:人之初,性本善,性相近,習相遠。苟不教,性乃遷,教之道,貴以專。

(日訳)人は生まれ落ちた当初には、その天性は皆が善良であり周囲の人や事柄にも十分に友好的である。しかしながら、成長するに及び、家庭の教育や外界の各種要素などの影響によって、本来はその天性において近かった人も、だんだんとそれぞれ異なった性格と人格が形成されてゆく。


 子供の幼年期に教育を施さなかったならば、その善良な天性はだんだんと変質し始める。子供を教育するにあたっては、その本性を伸ばすだけでなく、その子供が専心して事をやり抜くこととゆるめないよう指導することが必要である。もし父母が子供にそう要求しないのであれば、教育が良い作用を起こすことは望めない。

2:昔孟母,擇隣処,子不学,断機杼。竇燕山,有義方,教五子,名倶揚。

 戦国時代の昔、孟子の母は子供の教育の為に良い環境を与えたいものと思っていた。最初に親子が住んでいたところは、墓地の隣であった。すると幼い孟子は葬儀と法事の真似をしていたので、母は良くないと思い引っ越した。次に住んだ所は、屠殺場の隣であった。すると幼い孟子は動物を殺しては肉を売る真似をし始めたので、母はまたよろしくないと思い、再度引っ越した。次に引っ越した所は、学生街であった。すると孟子が勉強し始めたので、それで母はよしとした。ある日、孟子の母は、孟子が勉強に専心していないのを看て、一家の生活の糧である機で織った布を途中から裁断し、途中で物事を投げ出す愚昧を諭した。


 五代時代の竇燕山(禹鈞)は若い時,心が邪で悪のかぎりを尽くして財を成したが,三十歳になっても子供がなかった。そこで以前の非を悔い改め全ての財を投げ出して,貧 しい家の子弟の教育のために尽力した。その後,五人の子が授かり,彼らに対して厳格かつ適切な教育を施した。子供たちは皆科挙に及第し天下万民のために尽力し,その名を後世に残した。


Q:問題討論

1.あなたが文中で認識したところの人の最初の「天性」とは何か?

2.あなたが認識しているところの「学」の概念とは何か?本課で学習したこと以外に何か他の意味があるだろうか?

3.後天的に出遭った出来事や学んだことは、私たちによい影響を与えているのだろうか、それとも悪い影響を与えているのだろうか?あなたの見方を皆と分かち合ってみよう。

4.人が自らの善良な本性を保持するにはどうしたらいいのだろうか?あなたの認識はどのようなものか?

5.あなたは「専」の一字を如何に認識しているのか?どうして「専」の一字はそのように重要なのか?


3:養不教,父之過,教不厳,師之惰。子不学,非所宜,幼不学,老何為。

 もし父母がその子弟の衣食にばかり気を遣い、その思想や行為に対して正確に導き教育できなければ、それは父母の過ちである。もし教師が知識の伝授ばかりに固執して、実際の状況に照らして要求しなければ、それは教師の怠慢であり能力に欠けているところである。、


 もし子弟がよく学習しなかったら、それはゆゆしきことである。もし子供時分に教育を受けなかったならば、絶好の学習機会を失うことになり、一個の何を聴いても分からない間抜けになるだけで、成長した後は何になるのであろうか。きっと平凡で無能な人になるだけである。

4,玉不琢,不成器,人不学,不知義。為人子,方少時,親師友,習礼儀。

 岩石の中の玉は、切磋(見どころのないところは捨てる)琢磨(有用なところを磨く)しなければ精美な玉器とはならない。人もまたこれと同様のことを経て、有用な人となることができる。人は学ばなければ、その義を知ることがない。

 子弟は品行の高尚な師匠や兄弟と親しくし、教養の豊かな朋友と交わるべきである。彼らの身に着けているものから、礼儀の方面で多くの知識を習得することができる。子弟がもし、人に真剣に接し、理知で事を処し、定められた規則を守ることができるならば、必ずや人に歓迎される人となる。


Q。問題討論

学習は倦まず弛まず続け、長期的な努力があってこそ成り立つものである。あなたは仕事(学習)と休息のリズムをどう作っているのか皆と分かち合ってみよう。

2.上の題をうけ、あなたが学習や生活のその他の面で、精神を集中したことによって成功した例を挙げてみよう。


5,香九齢,能恩席,孝於親,所当執。,融四歳,能譲梨,弟於長,宜先知。

 東漢の黄香は、九才の時に父母を敬い孝行を尽くすことを知った。冬の日は、父母がよく休めるように、あらかじめ自分が床に入って身体でこれを温め、夏の日には、扇子を使って扇ぎその席を冷やした。彼女の細やかな心遣いと孝行は、子女の手本となった。

 東漢の孔融は四歳の頃、梨を兄弟で分け、一番大きな梨を長兄に配り、自分は一番小さな梨を取った。兄弟の間では、お互いに譲ることが必要で、長兄は弟や妹を保護し、弟と妹は長兄を尊重しなくてはならない。このような道理は、子弟なら誰でも知っていなくてはならない。

6.首孝悌,次見聞,知某数,識某文。一而十,十而百,百而千,千而万。

 子弟に対する教育は、品徳教育がもっとも重要で、まず最初に孝行を言って聞かせ、その次に知識を見聞きする学習をさせるのである。授業の時には、知識が異なることに注意し、異なる教授方法を採らなくてはならない。


 数学の方面では、古代中国では十進法を採用していた。「一」は、自然数のはじめであり、十個の一を加えると十になり、十個の十を加えると百になり、十個の百を加えると千になり、十個の千を加えると万となる。


7,三才者,天地人,三光者,日月星。三綱者,君臣義,父子親,夫婦順


 中国の古人は、宇宙の基本的構造は、三才と三光から成るものと考えていた。三才は天地人を指し、人類社会の基礎を構成し、三光は日月星を指し、世界を照らす明るさの出所で、人類が依拠する基本条件がこれである。


 三綱は、中国の古人が最も尊重した倫理である。三綱とは、大臣として君主に尽くし、子供として親に尽くして孝行し、妻として夫に尽くすことを言う。もしこの三つの関係に矛盾が現れた場合、君臣関係が首位として選択されるべきで、その次が親子関係、それから夫婦関係という順番で並ぶものである。

8,曰春夏,曰秋冬,此四時,運不窮。曰南北,曰西東,此四方,應乎中。

 春夏秋冬という季節を四時と称する。中国の祖先は、遥かに依然から、北斗七星の柄杓の柄が向いている方向が、季節の対応していることを発見していた。柄が、それぞれ東、南、西、北に向かっている時に、季節がそれぞれ春、夏、秋、冬に対応しているというものである。四季は絶えず交替して果てがない。


 東西南北は、地理的な四つの方向であるが、いずれにせよ中心を確定すれば、他の方向を見ることができる。ここの中心とは、東西南北の概念から生まれたもので、同時に四方は中心を対象にして言ったものである。


9,曰水火,木金土,此五行,本乎数。曰仁義,礼智信,此五常,不容紊。


 水・火・木・土の五行は、本来(数)に根本を置いている。古代、人々は天地の間の陰陽という二つの機運が、五行の形に生まれ変わったと考えた。即ち、天一が水を生み、地二が火を生み、天三が木を、地四が金を、天五が土を生み、こうしてつくられた金・木・水・火・土を五行と呼んだ。五行には、相生(そうじょう)と相克(そうこく)の理があり、これは世のすべての物に通じ、自然の理はすべてここから派生してきたといわれている。


 仁・義・礼・智・信と呼ばれる五常は、乱れてはならない。五常の常とは、堂々とするという意味で、人であれば当然守らなければならない五つの正しい道理をいう。祖先たちは、宇宙万物の中で、人を最も大切にした。その理由は、人は禽獣とは異なり、人倫と道徳があるからである。それゆえ人倫と道徳のない人は、生物学的には「人」かもしれないが、社会的には「人」とは認めなかった。従って、伝統社会において、儒教の五常は社会全体の道徳的水準を維持するうえで、大きな作用を果たした。


10,稲粱菽,麦黍稷,此六谷,人所食。馬牛羊,鶏犬豕,此六畜,人所飼。

イネ,アワ、豆、麦、キビ、ウルチキビ、この六種の穀物は、人が食べるものである。ここでは、人が主食として食べるもののうち、代表的な六種類を取り上げて六穀とした。


馬、牛、羊、鶏、犬、豚、この六種類の家畜は、おもに人に飼われている動物である。これらの家畜は、主に食用や交通、輸送手段として利用されている。


.11,曰喜怒,曰哀惧,愛悪欲,七情具。匏土革,木石金,絲與竹,乃八音


人は、喜(喜ぶ)、怒(怒る)、哀(哀しむ)、恐(恐れる)、愛(愛する)、悪(憎む)、欲(欲する)と呼ばれる七つの情を備えている。もし眼前の事情が、自ら望んだとおりになれば人は喜ぶが、望み通りにならないと、人は憤り怒る。美しいものを見れば、人はこれを愛するが、醜いものを見ると嫌悪する。悲しみ傷ついたり、恐れを抱いたり、欲望をもつのは、人皆に備わった情緒である。


八音とは、瓢箪、粘土、皮、土、石、金、生糸、竹など自然の素材でできた楽器、もしくは異なった音楽の形式を代表している。例えば、鼓は皮で作った楽器なので革にあたり、鐘は鉄で作った楽器なので金にあたる。

12,高曽祖,父而身,身而子,子而孫。自子孫,至玄曾,乃九族,人之倫。


高祖父、曽祖父、祖父、父と私、私と息子、息子と孫。家族は、お年寄りから孫までが全部揃って秩序が生まれる。人類の発展は、子孫の繁栄が代々相伝わることに依拠しており、輩分※の呼称によりこれを明確にする。

※輩分(はいぶん)…日本語では「世代」が一番近い意味。兄弟は、同じレベルの輩分であり、自分より上の世代を長輩、下の世代を小輩と称する。前輩、後輩という言い方もあるが、後輩を他人に使うと失礼にあたるので、これはもっぱら自らを謙遜する場合に使う。


息子、孫、ひい孫、玄孫を下四代、この下四代に上四代(高祖父、曽祖父、祖父、父)に、自身を加えたものを九族と称する。子々孫々と一代一代繋がるのは、血脈が伝わることと長幼の尊卑にかかわっており、血統的に正常な人間関係は、秩序を伝えることにかかわっている。


13.父子恩、夫婦従、兄則友、弟則恭、長幼序、友与朋。君則敬、臣則忠。
此十義、人所同。

 家庭に於いては、父母は子供に関心を寄せ、子供は両親に孝行を尽くして尊敬する。夫は妻を尊重し、妻は夫を思いやる。兄弟の間では、弟は年上の兄を尊重し、兄は弟を愛護する。人と人との交際往来においては、兄弟は無論のこと友人関係においても、年上を先に、年下を後にして、真心をもって接する。古代人が講じた長幼の序は、伝統的な美徳であり、今日においても人が受益して浅からぬものがある。


 古代の君臣の道とは、君主は臣下を尊重して、それらを尊重し、臣下は君主に対して忠誠を捧げ、自らの本分と職分をつくす。
 このように、名なる君主と賢い臣下であってこそ、はじめてよく国家を治めることができ、民衆を豊かにすることができる。
 父に慈しみがあり、子に孝行があり、夫に温かみがあり、妻が従順で、兄に情があり、弟は恭しく、崩に信があり、友に義あり、君主に敬あり、臣下に忠あり、この十則が、人々が厳格に守るべきものであり、そうしてこそ社会は安定し、生活は吉祥平和となる。

Q。問題討論

1.あなたの家に、兄弟姉妹はいるであろうか。いたとしたら、日常でどのように接しているだろうか、事例を挙げて説明してみよう。

2.朋友に接するとき、「真」が貴ばれる。あなたが他人に「真」で接するとき、獲られるものとは何か?

3.以前の君主時代には、国民は君主に忠誠を尽くさなくてはならなかった。現在は民主政治であるので、国民は国家に忠誠を尽くす。われわれはどのように国家に忠誠を尽くしているだろうか。



14.凡訓蒙、須講究。
祥訓話、明句読。為学者、必有初。小学終、至四書。

 教師が児童を教導する際には、必ずその教授方法を研究しなくてはならない。教師はまずその字句の意味を明らかにし、その後に句読点など文章の読み方を教える。

 勉強しようとする児童は始まりが肝心で、それによって基礎が築かれる。児童の小学とは、人としてなすべきことと自立であり、それに基礎的な知識が備わって、はじめて基礎がよくできたといえる。それから、「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四書を勉強する。

Q.問題討論
句読点は、読み方においてなぜそのように重要なのか?例を挙げて説明してみよう。


15.論語者、二十篇。
群弟子、記善言。孟子者、七篇止。講道徳、説仁義。

 孔子は、中国の偉大な教育家であり、「論語」は孔子の学生たちが、孔子の言行を記録したものである。その内容は、人の処世、修養道徳、仁政と道理であり、全部で二十篇である。「論語」は、児童の品行を良好にする重要な作用がある。

 孟子は戦国時代の思想家で、孔子の思想を継承し発展させ、「アジアの聖賢」として尊敬されている。彼の言行は、その弟子たちが編纂した「孟子」の一書に集約されており、全部で7篇、内容はすべて道徳と仁義である。 


問題討論
1.「論語」の内容は、一体どのようなものか?その一篇を挙げて、皆で討論してみよう。

2.あなたに深く影響を与えた「名言一句」とは何か?それは誰が言ったものか?それはあなたをどのように啓発したのか?


16.作中庸、乃孔●(子思筆)、中不偏、庸不易。作大学、乃曽子、自修斉、至平治。●…にんべんに「及」

中庸は、子思の編著によるものである。書名の「中」は、人が偏らずに道の真ん中を歩むことであり、「庸」とは平常心を保ってこそ恒久不変を保てるというものである。
 「大学」は、曾子が編著したものであり、大学そのものの思想的重心、自身の身の修め方から国を平らかにする方法までの道理を説いている。
 後世、身の修め方はようとして語られなくなったが、それは最も重要な部分で、「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」の順番で修める。

問題討論
1、一般の人が中道を行けない理由はどこにあるのだろうか。

2、文中の「自修斉、至平治」で、どうして自らの身を修めることが、国を平らかにすることにつながるのか、例を挙げて説明してみよう。



17.孝經通,四書熟,如六經,始可讀。詩書易,禮春秋,號六經,當講求。

孝経を理解してから四書を熟読し、はじめて「詩」「書」「易」「礼記」「「春秋」「周礼」の六つの経書を読み始めることができる。
 この六つの経書(六経)は、古代の儒家にとっての重要な経典であり、よくよくその道理を研究して探索すべきである。

問題討論

1.「四書」と「六経」を分けるものは何であろうか。
2.「四書」と「六経」は、儒家の典籍であるが、なぜそのように重要なのであろうか。
3.研鑽上で、なぜそのような次第に分けているのだろうか。


18.有連山(1),有歸藏(2),
有周易(3),三易(4)詳(5)。

有典謨(6),有訓誥(7),
有誓命(8),書(9)之奧(10)。

≪字義解釈≫

(1)連山…書名。伏義の作とされる。一説によると夏代に編著された占断の書で、艮の卦を首とし、それが山を象徴しているので、「連山」と称される。既に失われた。

(2)帰蔵…書名、黄帝の作とされる。一説によると、商代に編著された占断の本で、坤の卦を首とし、それが大地を象徴し、大地が万物を蔵するので、「帰蔵」と称される。既に失われた。

(3)周易…書名、周代の占断の書で、乾の卦を首とし、文王が罫辞を作り、周公が爻辞を作り、よって「周易」と称される。易は変化の意味、周易の起源は「河図」「洛書」にあり、史記によると、「文王が周易をよくした」とある。これは、文王が伏義の先天八卦と後天八卦を推し進め、現在の周易の形にしたものである。筮竹をもって占うことができる。

(4)三易…「連山」「帰蔵」「周易」の三つ。

(5)詳…詳細にして完備している。

(6)典謨…;「尚書」の編著形式。「典」とは、王事の足跡を著した文献、「堯典」など、「謨」は君臣の言辞を集めた議事録「陶謨」など。

(7)訓誥…;「尚書」の編著形式。「訓」とは、教導の言辞「伊訓」など。「誥」と慰問精励の言辞、「康誥」など。


(8)誓命…;「尚書」の編著形式。「誓」とは、宣誓の言辞、「甘誓」など。「命」とは、君王の勅命「顧命」など。


(9)書…尚書のこと。

(10)奥…奥妙にして精緻なこと。

本分解釈 

「連山」「帰蔵」、それに「周易」を加えたものを「三易」という。三易は、卦を用いて宇宙の森羅万象が変化する道理をつまびらかに説明しているもので、人がいかに安心立命するかの書籍である。典謨、訓誥、誓命という尚書の六つの編著形式は、その道理が奥妙精緻なゆえんである。

問題討論

1.あなたは占いが好きか、それはなぜだろうか。

2.あなたは人に命運があることを信じているか。人はいかにして「命運」に相対することができるであろうか。、





19.我周公(1),作周禮(2),
著(3)六官(4),存(5)治體(6)。

大小戴(7),注(8)禮記,
述(9)聖言(10),禮樂(11)備(12)。

≪字義解釈≫

(1)周公…;姓は姫。名は、旦といい、叔旦ともいう。周の文王の第四の御子で、封じられた地が「周」(現在の陜西省岐山の北)にあたるので、周公あるいは周公旦といわれる。

(2)周禮…;書名、周公の著。古代政府各部門の職官制度が記載されている。それゆえ周官ともいわれる。

(3)著…編著。設立

(4)六官…周朝の六種の官僚制度。(一)天官?宰,(二)地官司徒,(三)春官宗伯,(四)夏官司馬,(五)秋官司寇,(六)冬官司空、冬官はとっくに失われていて、漢の時補入された、

(5)存…存在。残される

(6)治体…;国家を治める体制。

(7)大小戴…西漢の学者、載徳伯父と載聖姪。二人は、叔父と甥の関係にあり、よって「大載」「小載」と称される。

(8)註…解釈。

(9)述…叙述。伝述

(10)聖言…聖賢の言論。

(11)禮楽…各種儀礼とこれに配合した音楽の制度。

(12)備…完全に備わっていること。

「本文解釈」…周公は、「周禮」を著し、周朝の六種の官僚制度を記載し、国家の体制を保存した。西漢の学者、載徳と載聖は、「禮記」に注釈を施し、書中で聖賢の言論について叙述し、各種の儀礼とこれに関する禮楽の制度について触れて、よく備わったものとしている。

問題討論
1..周公は六官の礼制について著し、君臣上下が自己の職責を守り、その分を越えてはならないものとした。あなたは自己の職責を重要だと感じているだろうか。もし職場に出ている人が、自己の職責をよく果たせないでいたら、その職場の風紀はいかなるものになるだろうか。

.あなたは実生活上の各種の礼節について注意しているだろうか。衣食住、慶事弔事の方面において、基本的な礼節をおろそかにしてはいないだろうか。



20.曰國風(1),曰雅(2)頌(3),
號(4)四詩(5),當諷詠(6)。

詩既(7)亡(8),春秋(9)作(10),
寓(11)褒(12)貶(13),別(14)善惡。

≪字義解釈≫

(1)國風:《詩經》の文学様式の一つ。周代の諸侯の国で歌われた民間歌謡で、全部で160篇、15か国に渡り、大部分が西周から春秋中期にかけての民歌。


(2)雅:≪詩経≫の文学様式の一つ。≪大雅≫と《小雅》とに分かれる。≪大雅≫とは、諸侯が天子に謁見したときに用いられた詩歌。、≪小雅≫とは、天子が賓客をもてなした時に用いた詩歌。その大部分が東周から西周にかけての作品。

(3)頌:《詩經》の文学形式の一つで、帝王や諸侯がその祖廟を祭るときの歌。《周頌》西周初年、《魯頌》、《商頌》春秋時代の三種に分かれる。

(4)號:名義。

(5)四詩:詩經の四種の文学形式。

(6)諷詠:暗記と吟唱。

(7)既:すでに。

(8)亡:失われた

(9)春秋:書名、孔子が魯國の史書を根拠に編纂したもの。魯國の魯隱公元年(公元前722年)から魯哀公十四年(公元前481年)まで、全部で242年の史事を記録している。中國の比較的早期に編纂された歴史書であり、その文字は簡短であるが,批評され讃えられ、後世の人は「春秋筆法」と称している。

(10)作:生み出す。

(11)寓:隱れて、含まれる。託す。

(12)褒:讚揚。

(13)貶:批評。

(14)別:分辨。

≪本分解釈≫

「詩経」の中に在る、「国風」、「大雅」、「小雅」、「頌」という四種の文学様式は、「四詩」といわれ、当時は常に朗誦され吟唱された。古代の君主は、各地の民風を知るために、「採詩」制度を設立し、民間の歌を参考にして国政に反映させたが、東周以降に王政が弱体したため「採詩制度」も行われなくなり、、次第に忘れ去られていった。
孔子が「春秋」を編著した際には、その時代の君主の施政を批評し善悪を明らかにしており、国づくりにおいて「採詩制度」に似たようなものがあったと指摘している。

※三字経のこの一節には、元々「春秋作」の次に「道淵源、習礼儀」があったという。


問題討論

(1)孔子はかつて「詩を学ばなければ,語ってはならない」と言ったが,あなたは詩歌に慣れ親しんだ経験はあるか。そして、あなたはどのような感じを受けただろうか。皆と交流してみよう。

(2)孔子は乱世の中で《春秋》を編著したが、あなたが混乱した局面の中で、粗暴な風紀をもった人が出てきたのを見たら、それはいいことだと言えるだろうか。もし権力者が間違ったことをした時、あなたはどのように対峙できるだろうか。


21.三傳(1)者(2),有公羊(3),
有左氏(4),有穀梁(5)。

經(6)既(7)明,方(8)讀子(9),
撮(10)其(11)要(12),記(13)其(11)事。

字義解釋】

(1)三傳:《左傳》、《公羊傳》、《穀梁傳》を合わせて「;春秋三傳」といい,簡略して「三傳」ともいう。者:助詞。
(2)公羊:《公羊傳》の略称。その早くは戰國時の公羊高が編著し,漢の景帝の時、再び公羊壽と胡毋生によって改訂された。此書では、問答の形式をもって、《春秋》の言葉少なであるが大義のところを簡単に解釈している。
(3)左氏:《左傳》を指し,《左氏春秋》ともいう。春秋時の魯の太史・左丘明による編著、敘事が主で,史事をもって《春秋》を証明することに重きをおく。
(4)穀梁:《穀梁傳》をさす。戰國時の穀梁赤による編著。
(5)經:古代の圖書の目?で、「經」、「史」、「子」、「集」の四部に分類される。儒家の典籍を指す。
(6)既:已に。
(7)方:開始。
(8)子:古代の圖書の分類で「經」、「史」、「子」、「集」の四部。「子」部では。諸子百家の典籍をさす。(9)書籍。
(10)撮:摘?。
(11)其:諸子百家の書籍。
(12)要:重點。
(13)記:記す。

【譯文參考】

「春秋」を解釈する「三傳」の書には、戦国時代の公羊高による「公羊傳」、春秋時代の魯国の人による「左傳」、戦国時代の穀梁赤による「穀梁傳」がある。

儒家の典籍に通暁するようになってから、はじめて諸子百家の書を読み始める。それは諸子各家の重点をまとめており、各家の学術と言動を記録している。

【問題討論】

(1)古人が読むべきとしていた書には、儒家の典籍や諸子百家の書などがあり、それらによって人の世でいかに行くべきかが分かった。現代の人は、漫画、雑誌や小説など面白いものを読みたがるが、それによってどのような問題が生じるだろうか。古人が「読むべき」としていた書には、どのようないいところがあるだろうか。

(2)あなたが最も印象に残った一書、一つの故事は何であったか。なぜそれが人を感動させたのか考えてみよう。


22.五子(1)者,有荀(2)揚(3),
文中子(4),及老(5)庄(6)。

經(7)子(8)通(9),讀(10)諸(11)史(12),
考(13)世系(14),知(15)終(16)始(17)。

字義解釋】

(1)子:古代においては、学問、道徳あるいは地位のある人を「子」といった。ここでは五子が著した書を指す。
(2)荀:荀子,戰國時代の趙の人、荀況。《荀子》上、下二篇を著した。
(3)揚:揚子,西漢の揚雄。《太玄經》、《法言》の二書を著した。
(4)文中子:隋代の王通。《元經》、《中?》の二書を著した。唐代文学者王勃の祖父であり、死後に文中子と号した。

(5)老:老子,道家の始祖、李耳。《道コ經》を著した。
(6)庄:莊子,戰國時代の莊周。
(7)經:經書,中國古代の圖書、「經」、「史」、「子」、「集」の四大分類の中の第一部。
(8)子:子書,中國古代の圖書、「經」、「史」、「子」、「集」の四大分類の中の第三部。
(9)通:明らかに理解する。
(10)讀:研究。
(11)諸:多くの、各個の。
(12)史:史書。
(13)考:考證。
(14)世系:帝王,貴族の世代に渡る系譜。
(15)知:あきらかに知る。
(16)終:衰亡。
(17)始:興起。

【譯文參考】

古代には重要な子書が五つあった。荀子、楊子、文中子、老子の五人が著した、「荀子」「法言」「中説」「老子」「荘子」がそれである。

経書と子書をしっかりと理解して後、各種の史書を研究することができ、その中で各王朝の歴代の系譜を考証して、その興起と衰亡の道理を知ることができる。

【問題討論】

(1)古人はなぜ「荀子」「法言」「中説」「老子」などの子書を読まなくてはならなかったのか。あなたがこれらの書物を人に勧めるとしたら、その基準はどのようなものであろうか、説明してみよう。

(2)あなたは中国の王朝を幾つ知っているだろうか。自分のよく知っている王朝を挙げ、同学に説明してみよう。


23.自(1)羲(2)農(3),至(4)黄帝(5),號(6)三皇(7),居(8)上世(9)。唐(10)有虞(11),號二帝(12),相揖(13)遜(14),稱盛世(15)。

字義解釋】

(1)自:より。から。
(2)羲:伏羲氏をさす。傳説中の「三皇」;の一人。姓は風、伏羲氏は河圖洛書から、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の内容である卦圖を導きだし,後人はこれを「伏羲八卦」と称した。伏羲氏は民を強化して、網を結うことを教え,漁獵を牧畜に従事し、嫁を娶とり,八卦を創り,文字を発明した。これを「結繩の政事」という。
(3)農:神農氏を指す,炎帝ともいい。傳説中の「三皇」の一人。姓は姜、彼は農業の神であり,民に地を耕して種撒きを教え、中國を農耕社會へと導きいれた。彼はまた「醫藥の神」でもあり,伝説によると神農は百草を試験して,《神農本草經》を遺し,中華の醫藥を創始した。
(4)至:到る。
(5)黄帝:古代の帝王軒轅氏の称号。姓は公孫,「軒轅之丘」で出生したので,軒轅氏といった。姓は姫、「有熊」で建国したので,または「有熊氏」ともいった。當時、「蚩尤」暴虐無道を働いて,諸侯の領土を脅かしていたので,黄帝は蚩尤と●鹿において戦い,後に黄帝は蚩尤を打ち負かした。諸侯は黄帝を天子として尊び,神農の後代を継いで,天下の皇帝となった。黄帝の在位期間は長く、國勢は強盛となり、政治は安定し、文化は進?し,文字、音樂、?數、宮室、舟車、衣裳と指南車(方向を指し示す車)等、多くの發明と製作がなされた。伝説によると、堯、舜、禹、湯などは皆、彼の後裔であり,このため黄帝が中華民族の共同の始祖ということになっている。
●…さんずいに豕
(6)號:称する。
(7)三皇:傳説中の古代の帝王。伏羲、神農、黄帝をさす。
(8)居:位する。
(9)上世:上古時代。古代。
(10)唐:堯の國號。
(11)有虞:舜の國號。
(12)二帝:堯帝、舜帝をさす。
(13)揖揖:禅讓をさす。帝位を才コある人に禅譲した。
(14)遜:位を禅譲する,帝位を去る意思。
(15)盛世:天下太平の時代。

【譯文參考】
伏義氏、神農氏、黄帝の三人を後の人たちは、「三皇」と称した。彼ら三人は古代の帝王である。尭帝と舜帝には、一点の私心もなく、賢人に帝位を禅譲し、天下泰平の世をつくった。

【問題討論】

(1)あなたは、伏羲氏、神農氏、?帝の故事を知っているだろうか。他らはどうして後人に「三皇」として崇められるようになったのであろうか?

(2)あなたは「禪讓」ということばを知っているか。堯と舜が天下を禪讓したやり方に対して、どのような感想をもっているだろうか。

24.夏(1)有禹(2), 商(3)有湯(4),
周(5)文(6)武(7),稱三王(8)。

夏傳(9)子(10),家天下(11),
四百載(12),遷(13)夏社(14)。

【字詞義解釋】
(1)夏:朝代の名。
(2)禹:夏朝を開國した第一の君王。姓は●1。黄帝の玄孫。尭の時代、彼の父鯀は洪水を治めることに失敗し、舜帝に殺され、彼は父の後を継ぎ洪水を治め、舜帝から禅譲されて帝になった。
●1…女へんに以の字
(3)商:朝代の名。
(4)湯:商代を開國した君主。姓は子,名は履,成湯と称した。
(5)周:朝代の名。
(6)文:周の文王。姓は●2,名は昌,商朝末期、周族の領袖は,岐山の麓で建国したので、西伯と称した。死後,文王として尊敬された。
●2…女へんに臣。
(7)武:周の武王を指す。姓は●3,名は發,文王の息子。
●3…女へんに臣。
(8)三王:夏、商、周三代の聖王。
(9)傳:位を伝える。
(10)子:子孫。
(11)家天下:帝位を子孫に伝える、世襲のこと。国家を自家の資産のように、子孫に継がせること。
(12)載:年。
(13)遷:改變。
(14)社:社稷(しゃわい),國家を指す。社は土の神。稷は穀神。古代の帝王、諸侯は必ず社稷の神を祀った。社稷は國家の存亡にかかわるので、故に社稷が國家の代名詞となった。


【譯文參考】

夏朝の大禹,商朝の成湯,周朝の文王と武王、彼らは皆、夏、商、周の三時代にあって才とコを兼備した聖王であった。

夏の君王は帝位を自己の子孫に継がせ、世襲が始まり,天下は自己の家産のようになり、子子孫孫にまで受け継がれて400年が経過していった。夏の桀は在位にあって,暴虐無道であった。このため商の湯が起兵して夏桀を討ち,天下を平定したため,夏朝はこれで終結した。


【問題討論】

(1)どのような国家指導者が、一般大衆にとって敬愛に値するだろうか。あなたが聞き及んでいる古今の例を挙げて説明してみよう。


(2)世襲と禅譲では、帝位を継承する制度として、どのような違いがあるだろうか。


25.湯(1)伐(2)夏(3),國號(4)商(5),六百載(6),至(7)紂(8)亡(9)。周武王(10),始(11)誅(12)紂,八百載,最長久。

【字詞義解釋】

(1)湯:人の名,商の湯王,商朝の第一の君王。
(2)伐:攻めて打つこと,出征して討伐すること。
(3)夏:夏の桀王。夏朝の最後の君王で,歴史上の暴君の一人。
(4)國號:中國古代において,一國を代表する名號。
(5)商:朝代の名。商湯が夏朝を滅した後、建立した國家。
(6)載:年。
(7)至:到る。
(8)紂:人の名。商朝最後の君王で,歴史上の暴君の一人。
(9)亡:消滅。
(10)周武王:帝號。周朝の武王。
(11)始:開始。
(12)誅:消滅。討伐

【譯文參考】

商の湯が夏の桀を滅ぼし、夏朝を終結させ,新しく國を造り,國號を商とし,六百年あまり続いたが,紂王の時に滅亡した。

周の武王が舉兵し、商の紂王を滅して周朝を打ち建て,八百年余り続いたが,古代の歴代王朝の中でも最も長く続いた朝代であった。

【問題討論】

(1)商朝は、なぜ紂王の時に滅亡してしまったのだろうか?
(2)周朝は中國の歴史上で最も長く続いた朝代であったが,その原因は何であったろうか?

26.周(1)轍東(2), 王綱(3)墜(4),
逞(5)干戈(6),尚(7)遊説(8)。

始(9)春秋(10),終(11)戰國(12),
五霸(13)彊(14),七雄(15)出(16)。

【字詞義解釋】

(1)周:周の王朝。

(2)轍東:周の平王は國の都を東に遷し洛陽に定めたので、歴史上では東周といわれる。

(3)王綱:王朝の統治制度。綱とは綱紀のこと。

(4)墜:墜落、衰弱。

(5)逞:勝手気ままに振る舞うこと。ここでは、武力を濫用すること。

(6)干戈:古代の兵器の通称,ここでは戰爭を指す。

(7)尚:尊ぶ、重んじる。

(8)遊説:策士達が諸国を回って、諸侯に対して政治形勢を分析したり利害關係を説いたりして,個人の主張を提出し,諸侯の信用と寵愛を得ること。

(9)始:開始。

(10)春秋:春秋時期。

(11)終:終結。

(12)戰國:戰國時代。

(13)五霸:齊の桓公、晉の文公、宋の襄公、秦の穆公、楚の莊王を指す。

(14)彊:強の元字で、強盛。

(15)七雄:秦、齊、楚、燕、韓、趙、魏の七國

(16)出:出現。

【譯文參考】

周の平王が國の都を東に遷して洛陽と定めて以後,王室の綱紀と政治制度が漸次衰落し始め,諸侯は武力を濫用して,常に戰を発動した。知識人、策士、謀士は列國を周遊して,その弁舌をもって相手を言い含め、策を献じて功名をもとめることが往時の流行となった。

東周は、春秋時代に開始し,戰國時代に終結した。春秋時期には、齊の桓公、宋の襄公、晉の文公、秦の穆公、楚の莊王といった,五人の諸侯が覇を競い、戰國時期には秦、齊、楚、燕、趙、韓、魏らの七雄が出現した。


【問題討論】

(1)國と國とがもし武力をもって競争したら,それが果たして国家の本当の強盛の形象といえるだろうか。それで根本的に問題が解決できるだろうか。

(2)時代は變遷し,人の価値觀もまたこれに従って改變する。現代の知識人は,社會に対する貢献の役割も古代とは同じではない。現代の知識人の主要な役割とは一体何であろうか。


27.●秦氏  始兼并  伝二世  楚漢争  高祖興  漢業建  至孝平  王莽簒 
●…秦を開国した「えんせい」

(日訳参考)戦国の末期、秦の王●政(えいせい)が六国を併呑して天下を統一し、秦朝となった。しかし、秦朝の寿命は大変に短く、秦の二世の時に一般民衆がその暴政に耐え切れなくなり、劉邦と項羽が戦争が起こし天下を争う状態になった。
劉邦が項羽を討って天下を手中にしたのち、漢朝を打ち建て、漢の高祖となった。漢朝は都を長安とし、この時期は歴史上では西漢と称される。孝平帝に到ったとき、外戚の王莽(おうもう)に帝位を盗まれ、国号が「新」と改められ、西漢はここに滅亡した。


28.光武(1)興(2),為(3)東漢(4),
四百年,終(5)於(6)獻(7)。
魏(8)蜀(9)呉(10),爭(11)漢鼎(12),號(13)三國(14),迄(15)兩晉(16)

【字詞義解釋】
(1)光武:帝號。漢朝の光武帝である劉秀を指す。
(2)興:復興。
(3)為:建立。
(4)東漢:朝代の名。光武帝から獻帝にまで至り、洛陽を都とした。洛陽は西漢の首都である長安の東側にあったため,歴史上ではこの時期を東漢と称する。
(5)終:結束、滅亡。
(6)於:到、至る。
(7)獻:帝號。漢朝最後の皇帝劉協を指す(漢獻帝)。
(8)魏:朝代の名,三國の一つ。曹丕が漢の獻帝の帝位を奪い,漢に代わって帝と称した。國號を魏とし,蜀、呉と並んで「;三國」;と称した。
(9)蜀:朝代の名,三國の一つ。劉備が漢の帝位を継承し蜀と称した。歴史上では、蜀漢と称する。
(10)呉:朝代の名,三國の一つ。三國時期に孫權が打ち建てた。
(11)爭:爭奪。
(12)鼎:九鼎,夏禹の時代、九州から貢がれた金で鋳造した鼎。夏、商、周の三代において、國家政權と王位の象徴として國に伝わる寶器とされた。
(13)號:號稱。

(14)三國:魏、蜀、?が分立した時期で、歴史上では三國と称される。
(15)迄:結束、終止。
(16)兩晉:史學上では、中國の西晉時期と東晉時期を合わせていう。

【譯文參考】

漢の光武帝・劉秀は,漢室を復興し,王莽を退位させて,東漢し。漢朝は四百年余り続いたが,漢の獻帝の時に滅亡した。

國、蜀國、呉國が互いに漢朝の天下を争い,歴史上ではこれを三國時代と称する。晉朝の興起とともに,三國が滅亡し,紛亂の局面は終結した。晉朝は西晉と東晉との二つの時期に分かれる。

29.宋(1)齊(2)繼(3),梁(4)陳(5)承(6),為南朝(7),都(8)金陵(9)。北(10)元魏(11),分東西(12),宇文周(13),與高齊(14)。

字詞義解釋】

(1)宋:南北朝時期の南朝の朝代名。その開國の君主は劉裕(宋武帝),幼名は寄奴,漢の高祖である劉邦の弟・楚の元王であった劉交の後代で、東晉において功績があって出世し、最終的に宋の王となった。後に晉の恭帝から帝位を譲り受け、国号を改めて宋と号した。劉祐が纂位(さんい)したという説もあり、中国の歴史上においては、不正な手段で皇位を継承するものは、全て纂位という。本人の成績、人望、能力とは関係ないもので、以下は全て纂位。歴史上では、南朝の宋、あるいは劉宋と称され、後の宋朝・趙宋とは區別される。公元479年,宋の順帝であった劉准は軍閥であった蕭道成から迫られ,その帝位を蕭道成に禅譲した,南朝の宋はついに南朝の齊に取って代われ、劉宋は五十九年で終焉した。

(2)齊:南北朝時期の南朝の王朝名。蕭道成が宋にとってかわって建国し,國號を齊と改め、齊の高帝を号した。齊の期間は全部で二十四年。
(3)繼:継ぐ。
(4)梁:南北朝時代の南朝の朝代名。斉朝の東昏侯の暴虐無道に,これに蕭衍が起兵して齊を滅し,蕭衍が即位して梁の武帝となった。後に侯景が乱を起こし、陳霸が兵を起こして候景を討伐した。しかし梁もまた陳覇先によってまた滅亡し、その間は全部で三十六年間であった。
(5)陳:南朝の王朝名。陳覇先が開国の主であったが、候景の乱によって国土が疲弊して物資が欠乏、後胤の政治的腐敗もあって、随によって滅ぼされた。その間は三十三年間。
ここまで、上は全て纂位。
(6)承:継承される。
(7)南朝:宋、斉、梁、陳の四朝。
(8)都:建国の首都。
(9)金陵:中国の地名で、今の南京市。
(10)北:北方の平定は北魏によって開始され、隋の文帝が北周を滅ぼして終結した。北魏、東魏、西魏、北斉、北周を総称して「北朝」という。
(11)元魏:北魏、または後魏ともいう。拓跋氏が開いた王朝であるため、その漢風の姓をとって元魏ともいう。拓跋●8たくばつけい)が北魏を開国した皇帝となり、歴史上では太祖皇武帝とされる。
(12)分東西:魏は東魏と西魏に分裂した。後期に至り、北魏の実権は軍閥の大将・高歓と宇文泰によって掌握された。公元534年、北魏の孝武帝は長安を逃れて宇文泰に投降し、翌年に宇文泰は孝武帝を殺害して別に文帝をたてた。高歓はそれとは別に魏に孝静帝をたて、●城(ぎょうじょう)に遷都した。これより、北魏は分裂して、二つの朝廷が成立した。歴史上では、長安を都としたものを西魏、ぎょう城を都としたものを東魏と呼ぶ。
(13)宇文周:南北朝時代の北周。西魏は後に宇文覚にとってかわられ、北周がたてられた。皇室の姓が宇文であったため、宇文周ともいわれる。後に隋によって滅ぼされるが、その期間は全部で二十五年間であった。
(14)高斉:南北朝時期の北斉。東魏の文宣帝が高洋によってとってかわられた。斉国をたてたので、歴史上では北斉といわれる。皇室の姓が高なので、高斉と称される。後に北周によって滅ぼされた。その期間は二十八年間。

【訳文参考】
晋朝は百年余り続いた後に、南北朝の時代に突入した。南朝の期間においては、劉宋、斉、梁、陳の四朝を経歴したが、この四個朝代の間、その国の都は金陵にあった。
北に北魏があって、後に分裂し、東魏と西魏となった。宇文覚が西魏を纂位して北周を建て、高洋が東魏を纂位し、北斉をたてた。

【問題討論】
(1)南朝は四個の王朝を経歴したが、そのなかで出現した有名人も少なくなかった。これらの人物について知っていることがあったら、皆に発表してみよう。
(2)北朝の北魏・孝文帝は即位後、漢化政策をしいた。その資料を探して、そのような政策が当時の人にどのような影響を与えたのかみてみよう。

30.●至(1)隋(2)  一土宇(3)  不再伝(4) 失統緒 唐高祖(5) 起義師(6) 除隋乱 創国基(7)
●…しんにゅうに「台」

【字義参考】
(1)●至:いたる。
(2)隋:581年〜618年。北周の時、周の皇位を取り、陳と梁を滅ぼし天下を有する。
(3)一土宇:天下を統一する。
(4)不再伝:隋の文帝から煬帝まで二代しか皇位が続かなかったこと。
(5)唐高祖:唐の開国の君主。
(6)義師:正義のために戦う軍隊。
(7)国基:国の根本、礎。

【日訳参考】隋の文帝・楊堅は、北周の基礎上に隋をたてた。天下は統一されたが、その子のよう帝は、暗君で頻繁に戦争を発動し、民の暮らしを顧みなかったため、隋朝は三十八年間で滅んだ。
唐の高祖・李淵が倡義にて起兵し、隋末期の動乱を治め、唐王朝の根底を創り上げた。

※以下、原文を割愛して編集し、通釈のみ掲載致します。

 唐朝の統治は、三百年近く続き、その皇位は二十代に渡って伝えられた。唐朝最後の皇帝であった哀帝(昭宣帝:在位904-907)が、朱全忠(五代後梁の初代皇帝、在位907-912)によってその帝位が略奪されると、梁朝が打ち建てられ、ここに唐朝は滅亡した。南北朝時期の梁とは、相区別するため、歴史上では後梁と称される。
 後梁、後唐、後晋、及び後周の五個朝時代の交代時期は、歴史上では五代と称されており、この五個朝代の交替には、一定の原因があった。
 趙匡胤(北宋の初代皇帝、在位960-976)
が後周から帝位を禅譲され、宋朝を成立させた。宋朝の帝位は十八代に渡って伝えられたが、北方の少数民族が南下したことにより、結果として南北で混乱する局面を迎えた。北方の金人、遼人、蒙古人が国家を成立させ、自ら皇帝を名乗り、最後には蒙古人が金朝と宋朝を滅ぼし、元朝を打ち建て、中国を統一した。
 元の支配した領土は広大で、その統治した領土は、それ以前のどの朝代をも凌駕していた。しかし、その政権維持はわずか九十年と短く、農民の一揆によって転覆させられた。
元朝の末年、明の太祖である朱元璋(1328-1398)が義兵を起こし、元朝を転覆させて全国を統一し、明朝を打ち建てた。彼は、自ら皇帝を名乗って、洪武と号し、都を金陵に定めた。
 明の世祖(明の第三代皇帝、永楽帝1402-1424、在位22年)が即位すると、都が金陵から北方の燕京に遷都された。明朝の帝位は十六代まで続き、末代の崇禎(1628-1644)の時に滅んだ。
 明朝の末年、宦官が権力を専横し、天下は大いに乱れ、一般大衆はしばしば義兵を起こしては一揆に及んだ。義兵を起こした首領の李自成(1606-1645)が、北京に進攻し、崇禎を自殺に追い込んだため、ここに明朝は滅んだ。
 清軍が北京にはいると、清の世祖(順治帝1638-1661)が北京で帝位につき、各地の反乱は鎮まり、民衆は再び安定した生活を取り戻したので、国は比較的強くなった。
 清朝の道光、咸豐年間、イギリスがアヘン戦争を挑発した。イギリスとフランスは、それぞれアロー号事件とフランス人神父殺害事件を口実に連合軍を組織し、北京を直接攻めた。
 孫中山は、辛亥革命(1911-12)を指導して清朝政府を転覆させ、帝制を廃して、憲法を創立し、中華民国を成立させて、自らが臨時の大総統となった。
 三皇五帝から中華民国成立までの歴史を学習することにより、各朝各代の栄枯盛衰を了解することができ、そこから多くの教訓を引き出すことができる。
 中国の歴史書は複雑で難しいが、読む際には順序があり、まず最初に「史記」を読み、その後に「漢書」を読み、第三番目に「後漢書」を読み、第四番目に「三国志」を読むのである。読むのと同時に儒家の経書を参照し、資治通鑒(北宋の司馬光が編纂した歴史書で全294巻)を参考にすることにより、歴史上の栄枯盛衰をよく理解することができる。
 歴史書を読む人は、歴史資料を度々読み返し、古今往来の事情における因果関係に通ずること、自らの眼前に見るかのようになるものである。
書を読み学習する際には、口と心とが対応していなくてはならない。ただ単に朗誦するだけでなく、心の中で考えてみることが必要である。朝に夕に学習に心をおいてこそ、始めてよく学習することができる。
 春秋時代に魯国(現山東省照市)に項タク(xian tou)という神童がいたが、好学の人であった孔子は、わずか七才であったこの少年に師事した。孔子のような偉大な聖賢でさえ、このように勉学に励んだものだった。
 北宋の初年に宰相となった趙普(922-992)は、毎日のように論語を手にして読み返し、高官になってからもなお一層勉学に励んだ。
 前漢の人であった路温舒は、人から『尚書』を借りて、蒲の穂で帳面をつくってこれに書き写して勉強した。六十歳にして武帝の宰相となった公孫弘は、かつて春秋時代に竹を削って竹簡をつくり、人から『春秋』を借りてきて、これに書き写して学んだ。これら両人は、貧窮であったために、書が買えなかったが、勉強を怠ることはなかった。
 後漢時代の著名な政治家であった孫敬は、幼少時に勉強で刻苦精励するため、自らの頭髪を梁に括り付けて、居眠りを防いだ。戦国時代、東周の縦横家であった蘇秦は、読書に疲れると錐で自らの太股を突き刺した。彼らは、他人に言われなくても自ら進んで勉強した。
 東晋の車胤(331-401)は、幼少時に貧窮であったために油が買えず、蛍を捕まえては夜その光で勉強した。晋代の孫康は、やはり貧窮であったために灯油が買えず、夜は屋外の積雪の反射光で勉強した。両人とも家計は苦しかったにもかかわらず、よく学習を継続した。
 唐宋八大家の一人、蘇洵(1009-1066)は、幼少時には勉強をしなかったが、二十七歳の時に一念勃起して勉強に打ち込み、後に大学者となった。
 老泉(蘇洵の号)のような人でも、年齢がいってから、始めによく勉強していなかったことを悔いているのである。まだ若い人は、いたずらに時間をむだにせず、勉強に励めば将来はきっと後悔しないであろう。
 宋朝の梁コウ(liang  hao)は、晩年発奮して八十二歳で状元(科挙でトップ合格)となり、殿上に於いて皇帝に面し、問題を立て板に水の如く答えたので、その他の試験参加者たちは顔色を失くした。
 彼が晩年において成功を収めたことは、皆を驚愕させないことはなく、その弛まぬ向学心こそ称賛されるべきである。ましてや若い時に、志を立てて努力すれば将来はきっと明るいものとなる。
 北魏の祖宝は、八歳でよく詩を暗唱することができ、後に中原太守にまで登り、その他唐朝の李秘は、八歳にして棋類を題材にして詩賦を創って吟じて見せた。
 これら両人は、聡明にして才能があり、当時人々から大変に称賛された。現在の人もまさに今学を始めて、彼らのやり方に見習えば、その努力は実を結ぶものだ。
 古代には才能において出色した女性がいた。後漢末の蔡文姫は、琴の音を聴き分けてその吉凶を判じ、晋朝の才女であった謝道ウンは、よく詩を創って吟じた。
 これら二人の女性は、音楽と詩賦に天賦の才能があったが、男性であれば一朝事あるときに備えて、自らの才能に磨きをかけておくべきだ。
 唐朝の玄宗時期、劉晏という子供は七歳にして神童として推挙され(科挙の特別枠)、長じて典籍の校正を行う正字の官僚に任ぜられた。彼は年少ではあったが、官僚として登用され、国家の重責を任せられると、一個の有用な人物になろうと益々勉強に励んだので後々まで名を残すこととなった。
 犬は晩になると門前を守って盗賊の侵入を防ぎ、鶏は夜明けになると鳴いて人を目覚めさせる。これらの動物でも職務を忠実に守るのに、人が学習の上に心を置くことができず、毎日ぼんやりと過ごしていれば、どうして人でありえようか。
 蚕は絹糸を吐いて衣料を提供し、蜜蜂は花から蜜を集めて蜂蜜を醸し人に食料を提供する。人もまた学習を怠り、その知識と技能をもってその価値を実現しなければ、これらの小動物にも劣るものだ。
 人が幼少時から勉強に励んで自己を充実させ、長じては学を役立たせれば、上は君主を補佐して国家に尽力し、下は民福を謀ってこれを増進することができる。このようにすると、自己の名声が揚がるだけでなく、その父母もまた栄誉の一端に浴し、先祖にも花が添えられ、後代のよい手本ともなる。
 人は自らの子孫に金銭財産を残そうとするが、後代にはこの三字経をよく研鑽するよう教導し、人としてどように物事に対処するかを理解させなくてはならない。
 多くの道理を反復して説き、子供には向上心をもって励む人となるよう言って聞かせれば、よい収穫を得ることができる。遊び呆けて、いたずらに時間を浪費すれば、後で必ずや後悔するものだ。

☆ご愛読有難うございました…完。


参考文献;正統文化教材『三字経』:博大書店出版
中国児童必読叢書『三字経・弟子規・百家姓・千字文』;海豚出版社
正見網(中文版)

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